愛というもののこと。
自分の時間に価値があり、
自分の時間=自分の人生だと気付いている人にとって
自分の時間を費やすことは、愛だと思う。
自分の時間の価値をわからないで、ただなんとなく時間を浪費してしまう人もいるけど。それは一回おいといて。
労働者に限ってはお金も、愛だと思う。
資本家を除いて、お金は自分の時間の対価だから。
その時間を費やしているものが、愛を注いでいる物ってことになるのは、とても単純明解な結論だと思う。
例えば。演技が好きな人の場合
生活に演技が役立たないのにも関わらず演技・演劇を続けていたらそれはもう演劇への愛だと思うし
生活の元が演技なら、それも演技に時間を割いているという意味で愛だと思う。それが、演技への愛なのか生活への愛なのかは個人の中で推敲が必要だけど。
ただ、例えば愛の代表的なもので、家族・配偶者の為に自分が何かしなければいけない状況になった場合
どうしても演技に使える時間が減るとする。
それを突き破ってでも演技を続けたら。それは演技への愛が強いことになるし
演技をする時間を削って、家族や配偶者の為に使えば、そちらへの愛が強いことになる。
だから、
愛がない行動というのは、他のものへの愛と表裏一体なんだと思う。
私はふた月ほどまえに浮気されたんだけど、
それは、彼の自己愛と異性全般への愛が強くて、私への愛に勝った結果なんだと思う。
適当に生きていない人間の行動は
おざなりにしたものへの愛の弱さと、
選び取ったものへの愛の強さで構築されているんじゃないかと思う。
いま私は会社からさっさと帰って、おしゃれしたり勉強したりしている。
これは、仕事への愛の弱さと
自己愛・そして
おしゃれや勉強で得られるものの先にある物への期待だったりまだ見ぬ愛の為にやってるんだと自分では思ってる。
自分の時間を割いて残業しまくっている人というのは、自分の時間の価値がわかってないか、他のことに比べて仕事への愛が勝っている人間なんだと思う。
ある程度の生活は保てているのになかなか帰ってこない夫だったり、妻だったり、全てがこのどちらかだと思う。
だから、何かに真剣でないように見えたり
何かに情熱が足りないようにみえる人は、
他の何かに自分の時間という愛を注いでいるんじゃないかな
とにかく私としては、自分の時間の価値を忘れておざなりに過ぎさせていくような事はもう1秒たりともしたくないと思う。
ただその根底には、まずは人生が楽しいとか、自分の人生が自分のものだとかいう価値観が必要だから
それができない人はなんというかもったいないというか、私とはちがうなぁと思う。
私がいま時間を割いているものが、きれいな終わりを迎えて、なにかの結果を残すといいな。
哲学してみる時間は貴重でした。帰り道に突如考えた。
またこんど。次はくだらないことでも書いてバランスを取ろうと思います。笑